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【講演レポート】苦境を乗り越え進化するANAの人財育成~組織の成長と社員の自己実現を目指す自律的な育成手法とは~

経験したことのない事業環境の変化を受け、多くの企業がビジネスモデルや人材育成の変革を迫られている。新型コロナウイルスの感染拡大により大きな打撃を受けた全日本空輸(ANA)もその一社だ。本セッションでは、ANA人財大学担当部長を務める石山由美香氏を招き、苦境に立たされた中でどのような意思決定をしてきたのかを紹介。株式会社グロービスでグロービス・デジタル・プラットフォーム マネジング・ディレクターを務める井上陽介氏とともに、人材育成や成長機会へのかかわり方について議論した。

※本稿は、日本の人事部の記事(https://jinjibu.jp/hr-conference/report/r202305/report.php?sid=3124)を再掲載するものです。

石山 由美香氏(全日本空輸株式会社 人事部/ANA人財大学 担当部長)

井上 陽介(株式会社グロービス グロービス・デジタル・プラットフォーム マネジング・ディレクター)

 

個別最適化した学びが必要な時代に突入

グロービスは1992年の創業以来、「経営に関するヒト・カネ・チエの生態系を創り、社会の創造と変革を行う」というビジョンを掲げてきた。このビジョンのもと、年間1000人以上が入学するグロービス経営大学院を運営するほか、これまで36社のIPOを支えてきたベンチャーキャピタル、スマホで気軽にビジネスナレッジを学べるGLOBIS学び放題など、積極的に事業を展開している。

GLOBIS学び放題では、企業のニーズとトレンドを踏まえたコンテンツを開発し続けており、現在のコース数は2200以上にのぼる。3300社を超える企業にサービスを提供しており、その累計IDは75万IDを超えた。

多くの企業の人材育成上の課題解決に向けた支援を行ううえで、同社のグロービス・デジタル・プラットフォーム マネジング・ディレクターの井上陽介氏は「労働力の減少や顧客ニーズの変化、デジタル技術の需要の増加など、時代が変わってきている。人材やスキル、人材育成の方法についても変わっていかなければならないフェーズに入っている」という。これから求められるスキルについては、「思考力、分析力、問題解決力」「想像力と事業革新力」「テクノロジー理解と活用力」「学習力と自己変革力」「リーダーシップと人間力」の五つに分類した。

企業が変革を進めるためのキーワードとして挙げたのが、デジタルトランスフォーメーション(DX)の推進だ。井上氏は「グロービスとしても個人最適化した学びを提供していくことが求められる中で、テクノロジーを活用して企業の人材育成に関する変革を後押ししていきたい」と話した。

「学びは止めない」大赤字の中でも人材に投資

続いて、全日本空輸(ANA)人財大学担当部長の石山由美香氏が登壇。新型コロナウイルスの感染拡大下での経験と、そこから得た学びについて語った。

石山氏の所属するANA人財大学は、人材育成戦略の一環として2007年に設立された。「人を尊重し、人の可能性を信じ、人を大切に育てたい」との思いが込められており、知識や技術の伝承だけでなく、人間力の成長にも注力している。石山氏は同社の客室乗務員などを経て2020年、同大学担当部長に就任した。

就任と時を同じくして、日本全体を新型コロナウイルスの流行が襲った。特に2020年4月に緊急事態宣言が発令されて以降、航空業界は大きな落ち込みを見せ、ANAもその例外ではなかった。2023年5月現在の一日当たりの利用客数は国内線で8~10万人、国際線で1万7000人程度まで回復したが、最も少なかった月は、2020年5月。1ヵ月で国内線約23万人で2019年度実績のわずか6%、国際線は約2万4100人で2019年度の2,9%、同年2020年度の最終決算では、過去最大となる4046億円の赤字を計上した。

「経験したことのない打撃を受け、不安や恐怖、なんとも言えない心情に襲われました。2020年の4月時点で、今後の業績も不透明な中、研修の予算削減や対面の機会を避けることから、予定をしていた集合型研修や外部の研修会社に対する発注はすべてキャンセルを余儀なくされました」

一方で、「社員の学びを止めない」との意思は固かった。ANA人財大学の建学の精神である「全てのANAグループ社員に入社から退職まで等しく成長の機会を提供する」との思いに改めて立ち返ったことで、人財大学内で「研修自体をやめたほうがいい」との意見はまったく上がらなかったという。

「もともと2020年には東京オリンピック・パラリンピックを予定していたことから、その後の国際線の需要増も見越して650人ほどの客室乗務員の入社が決まっていました。どうすれば研修を自分たちの手で提供することができるのか、試行錯誤を繰り返しました」

客室乗務員に対しては本来、入社後すぐに対面で4日間にわたりANAの歴史や社会人としての素養、チームビルディングやコミュニケーションを教えるプログラムを組んでいた。しかしコロナ禍の中で、急遽すべてのプログラムをオンライン仕様に作りかえる必要に迫られた。

「最初は対面のコンテンツをそのままオンラインで行おうと考えましたが、やはり無理があるという結論に至りました。そこですべてのプログラムを一からつくり直したんです。中には一つのコンテンツを練るのに半年ほどかかったものもあります。とにかく走りながら考えました」

客室乗務員の新入社員教育でとくに難しかったのが、チームワークやコミュニケーションのプログラムだった。立教大学の中原淳教授が紹介した「オンライン上の参加者5~6名で手を使ってハートをつくる」というワークを実施し、そのワークを通じてリーダーシップやフォロワーシップについて話し合った。「やり方さえ考えれば、オンラインでもチームワークで大切な要素を学ぶことができる」との学びを得た。

新入社員以外の社員への学びの提供の形も変化した。航空便の減少に伴い、自宅学習の時間が増加。そこで2019年に導入していたGLOBIS学び放題を活用して自主的な学びを促したほか、オンラインで海外在住のスタッフによるオンライン現地ツアーやSDGs・ダイバーシティについて話し合うセミナーなどを開催した。

また、ベテラン社員が自身の経験をもとにリーダーシップやマネジメントについて語ってもらう「人づくり講座」も新たに立ち上げた。「講師が教えるだけなく、社員自身の経験や専門知識を活用することで学びが深まると感じました」と石山氏は振り返る。

雇用の面でも決断を迫られた。コロナ禍で業務が減少する中でも、「雇用は守る」との方針を貫き、人件費抑制のために2020年11月からは客室乗務員を中心としてグループ外企業への出向を開始し、2022年末までの間に計320の企業や自治体、団体に対して約2300人の社員が出向を経験した。

「出向施策が始まった当初は、出向の辞令を受けた社員の反応は決してポジティブなものではありませんでした。不安や戸惑いの感情を抱えていた社員が少なくなかったのです」

そこで石山氏らは、出向する社員のモチベーション維持に努めた。片野坂真哉社長(当時)は必ず辞令の発令式に出席し、社員に感謝と出向の意義を伝えたという。

「社長は『あなたらしくこれまでの経験を活かしてがんばってほしい』『ANAグループの社員らしく元気に挨拶を』『初日は、ノートとペンを用意して謙虚な姿勢を忘れずに』などと、まるで自分の子どもに伝えるように熱意を込め、社員を送り出しました」

出向の機会を今後のキャリアに生かすための研修も行った。

「最初は不安な表情を浮かべていた社員も、研修を終えて『キャリアのプラスになるようにがんばります』『ANAグループの代表として行ってきます』と言ってくれるようになりました。そして出向を経験した社員からは、ANAグループでは得られない多くのことを学ぶとともに『仲間を大事にすること、お客様第一というANAで学んだことは、社外でも通用する私たちの強みだとあらためて認識しました』といった感想が多く寄せられました」

最初に出向していった社員の活躍を見たことで、出向をはじめて2年目、3年目になるころには「私もチャレンジしたい」と手を上げる社員も増えたという。

社員の「ワクワク」を原動力に

それでもコロナ禍においては、収入減から来る不安や働きがい・やりがいの低下から社を去っていく社員も少なくなかった。そこで喫緊の課題となったのが、エンゲージメントの向上だった。

研修でエンゲージメントを考えるに当たり、石山氏がまず社員に問うたのが「エンゲージメントを自分の言葉で置き換えたらどう表現するか」だった。

「一般的にエンゲージメントは仕事の充実や仲間とのつながり、貢献している実感などが大切だと言われていますが、人によってその捉え方は異なりますので、自分自身がどう感じるかが重要なのです。私の場合、『仲間と一緒に乗り越えた充実感や達成感』が『ANAグループで働けて良かった』との思いやエンゲージメントにつながっています」

加えて石山氏は、エンゲージメントを高めていくうえでのマネジメントのあり方に触れた。

「『自分の仕事が充実している』と感じるためには、成長したことや評価につながった行動などへのフィードバックが不可欠です。また、そのようなフィードバックが上司と部下との間で、あるいは先輩と後輩との間で日常的に実施される風土や認め合う環境をつくっていく必要もあります。それらを推進していくには、組織トップによるマネジメントが重要な役割を果たします」

2021年度には、コロナ禍での経営基盤を支える人材育成戦略の中で、「共創型マネジメント」を打ち出した。これはマネジメントが社員一人ひとりに向き合い、それぞれの個性や強みを生かしていくことでエンゲージメントを高め、新たな価値を創造していこうとする取り組みだ。キャリアの充実に向けても、個の強みを生かした公募や出向、職種転換を推進し、キャリアを切り開く機会の拡充に努めている。

同一職種内での昇進要件も刷新した。たとえば客室乗務員では、まとめ役であるパーサーや責任者であるチームパーサーに昇進するまでにはある程度の経験が必要とされてきたところ、資格要件を満たすことで早期に挑戦できる仕組みも整えた。この制度により、意欲的な若手のモチベーションの向上が期待できる。

「『共創型マネジメント』と一口に言っても、組織は変化するものなので、『こうすればいい』と決まっているわけではありません。組織の置かれた場面によっては、トップダウンで進める必要が生じることもあります。ANAグループのさまざまな組織の事例を共有する部長や課長を対象にしたワークショップなども設けながら、現在進行形でトライ&エラーで進めています」

2023年2月には、2030年に向けた新経営ビジョン「ワクワクで満たされる世界を」を、新中期経営戦略とともに発表。ビジョン策定に当たっては、ANAグループとして将来ありたい姿を社員が語り合う中で、自然と「ワクワク」のキーワードが浮かび上がってきたという。

「『ワクワク』という感情は人を動かすエネルギーです。人財戦略においても、社員が成長することに『ワクワク』を感じ、強みを発揮しながら活躍することを目指しています」

社員の成長に向けた学びにおいても、新しい試みを実施している。たとえば今年度からは、「学びのコミュニティ」を開始。これは学びたいテーマを持つ社員がホストとなってメンバーを募り、2週間に1回、1時間~1時間半程度をかけて学び合う取り組みだ。

50歳以上のミドルシニアに向けリスキリング研修も始めた。ただし目的は「リスキリング」そのものではなく、「ミドルシニアのキャリアの展開」にある。ミドルシニアにヒアリングする中で「これからのビジョンが描けない」「一人で学び続けるのが難しい」といった意見が出たことから試験的に始めたもので、これから自分がどうありたいかから逆算して学びを選択し、キャリアコンサルタントが伴走する形を取っている。

「まだまだ試行錯誤の連続で、現段階では成果につながっているとは言えません。一人ひとりが自分の強みを生かしていくことが、社員一人ひとりの人生の充実、ANAグループの発展につながるとの意識を強く持ち、これからも取り組みを進めていきます」

身近なところから学びの機会を提供に

続いては、石山氏と井上氏によるトークセッションが実施された。

井上:ANAでは社員自身も自律的な学びの重要性を感じていることと思います。自律型の人材を育成していくうえでは、どのような指標を重視しているのでしょうか。

石山:経年での各教育研修の受講者の推移や受講者アンケートの結果なども見ていますが、重視しているのは社員の意識ですね。組織サーベイの中で、「教育研修は社員の成長につながっているか」「会社の中で自分のキャリアを描くことができているか」といった質問をしており、その結果を重要な指標の一つとしています。

井上:とはいえ、中にはなかなか自律的に動いてくれない社員もいるのではないでしょうか。そういう人たちに対してはどのように対応をされていますか。

石山:確かに意欲的に学ぶ人たちは、私たちが手を伸ばさなくても自主的に学んでいく人たちでもあります。私たちにとっては、そうではない人たちにどう学んでもらうかが重要です。たとえばミドルシニアへのリスキリング研修では、トライアル期間を通じ、そもそも社員にどのような悩みがあり、何が学びを妨げているのかについて点検し、今後のミドルシニア向け研修に役立てていこうと考えています。また、「学びのコミュニティ」では、身近なテーマや興味があることについて誰かと一緒に学べる機会をつくることで、学びのハードルを下げることを意識しています。

井上:学びのコミュニティは、同じ問題意識を持つ社員と出会えるメリットもあれば、業務上で必要となるファシリテーションスキルなども涵養(かんよう)できますね。

石山:おっしゃる通りです。立ち上げ段階では人財大学のメンバーが考えた硬いテーマなので、ゆくゆくは社員発案のさまざまなテーマが出てくることを期待しています。自主的な動きが、さまざまな学びにつながっていくと期待しています。

井上:配置転換には、個人の希望と会社側の戦略的な要素が含まれていると思います。配置の場面ではどのような取り組みを行っているのでしょうか。

石山:配置については、本人のキャリアに対する考えを重視するように努めています。そのため、キャリア面談や自己申告面談の機会で、どういうキャリアを歩んでいきたいのかを上司が丁寧にヒアリングし、上司は部下のスキルや思いをきちんと把握したうえで、歩みたいキャリアのために必要な要件を伝えるなどしてサポートしています。

もちろん、すべての配置が個人の希望通りにいくわけではありません。そのようなときでも、上司から「キャリアを中長期的にとらえていくことや目の前の期待されている業務を自分の将来のキャリアにどうつなげていくか」の働きかけが大切だと思っており、その上司に対し、面談の仕方や上司の働きかけについての研修を行っています。

井上:社員の意見から「ワクワクで満たされる世界を」の経営ビジョンを掲げられたのですね。社員発の動きに経営トップを巻き込んでいくための工夫をぜひ教えてください。

石山:ビジョンの作成に当たっては、プロジェクトチームがANAグループ各社の職場へヒアリングやワークショップを実施し、プロジェクトチームとトップマネジメントの間での議論が熱心に行われました。中身の濃い議論を交わすことで、誰にとっても納得度の高いものをつくることができたと感じています。

新経営ビジョンを2月にリリースした以降、トップから社員に向けて、経営ビジョンに込めた思いなどの発信を頻繁に実施しました。絵に描いた餅にならないように伝え続けたことで、ビジョンに掲げる理念の浸透が加速したと考えています。

このビジョンを達成するには、部長や課長といったマネジメント層が経営ビジョンをまず自分事化して現場に落とし込み、ワクワクをつくるにはどうすればいいかを考えていく必要があり、今年度の役職者研修のテーマとして進めています。

井上:ビジョンに血を通わせ、現場と対話を重ねながら前に進めていく取り組みが非常に勉強になりました。「ワクワクを満たしたい」と考えている人はどのような企業にも多いはずです。人事が積極的に仕掛けていくことで、会社も変わっていくのだと感じました。本日はありがとうございました。