差別でなく区別が根強い。コスト課題、接し方さまざな要因排除がまだまだ必要と考える
しょうがい者や健常者の区別なく、個人の強みを活かせる仕組みや工夫を企業も行政ももっとしていくべきだとお話を伺う中で強く感じた。分担してある分野に特化していくなど、今後の考え方の参考になりました。
聞こえにハンデキャップを持った部下がいたが、高島さんも指摘しているように、目から入る情報の処理速度が驚くほど速かった。
しかし、障がいやハンデを持った人と仕事したり共に過ごしたりする時間、機会が本当に少ない。そういうことが区別につながっているように思う。
障がい者の雇用に特化した会社もあるが、私はその方向では区別はなくならないように思う。
日本では障碍者に対して差別はないが区別がある、というのに共感して反省もした。外国人労働者に対しても同じかもしれない。働くことの意義をやりがいや生きがいと語る障碍者の姿勢は刺激になるし、手伝ってあげるというより、一緒に過ごすことで自分が得ることのほうが大きいかもしれないと思った。無理解な気を遣わず、その人をもっと知ろうといろいろ聞いて距離を縮め共生できたらと思う。
差別はもちろん、区別もない状態を構築できればと感じた。同じ環境で一緒に仕事、体験することが大事。合理的配慮は必要だが遠慮しない。特別な配慮自体もなくして付き合えるように。たくましく育てる。
差別はないけど区別はある。
格好悪いが格好いいになればよい。
そういう見方ができるようになりたい。
差別する人はごく一部だと思うが、区別している人は多いと思う。自分も無意識のうちに区別していたと思う。本当に対等な立場で考えられていない事に気づけました。
高島さんの考え方や思考、行動を素晴らしいと思いました。区別ではなくダイバーシティ&インクルージョンで、障害有無、国籍の違い関係なく、その人の個性や得意分野で勝負していける社会の実現が、全ての人のウェルビーングや生き甲斐につながると思いました。
もの凄く、心に残るテーマでした。差別はないけど区別している、海外は区別もない。日本人の性格に起因することなんだなと感じました。心の壁を溶かすために一緒に遊んだり生活をする。ここは障害を持たれた方だけでなく健常の方とも同じことなのかと思いました。人として差別することなく、区別することなく仲間としてを大事にしていきたいと思いました。
今回、高島氏が指摘された「区別」なるものが、無意識にしかも重要な意思決定の場面で出てきて、そのことが「区別される側」の排除につながる結果になるようであれば、企業(役所)、社会のあらゆるところでダイバーシティという概念が行動に落とし込めていないということだと解釈しました。
「相手の立場になって考える」がベースで、身近で見聞きする出来事の中で、社会通念上でマイノリティと称している相手(障がい者、外国人、LGBTQ等)にとって不便・不安に思っていることを想像してみることをさらに意識していこうと思います。
思うところがいっぱいありました。
まずは特定の方を対象にその方の強みが生きるような活躍の場所を探す。それが徐々に広がって行けば先が見えてくるのかも知れません。
今はやりのマッチングですね。
共通の言語があれば行けそうに感じました。
我が社、と言うより私自身も障害者雇用を積極的に導入、取り組んで来ました。その中で気付いた事として、後天的な障害をお持ちの方には、元々の障害だけでなく、心の病いを持つ方が結構いらっしゃると言う事が有ります。そのケアも企業としては考えておかなければならない点だと思います。
「パラスポーツを正座して観ている」「障碍者に怒れない」「配慮される居心地の悪さ」など、非常に腹落ちする議論だった。
Twitterなどでも、パラリンピックがらみのニュースから感動ポルノ的な話や基本的人権の話に持っていこうとしている人たちがいるが、大切なのは「本人が主体的に行動することを偏見なく受け止められる社会であること」だと思う。
そして、上記を陽の部分としたら、陰の部分である施設における虐待やワーキングプア、貧困の連鎖など、本人の責めに帰すべきでないものについても社会が受け止めなければならないと考える。
障害者の方も同じように接して、お互い共感しながら、同じ目標に向かって協働していくことが大切だと思います。